コロナ禍でブラジルに滞在することになった
2020年の3月に僕はブラジルに入国しました。
当時すでにアジア、ヨーロッパではコロナの感染者が増え自宅での隔離や不要不急の外出などの規制が厳しくなっていました。
そして南米でもコロナの感染者が発見され、感染者が少しずつ増えて来ているもののまだ隔離などの規制もなく国をまたいでの旅行ができる状態でした。
なのでチリでのワーキングホリデーの為に南米に来ていた僕は、国境が開いているうちにボリビアやチリ、アルゼンチン、パラグアイを旅行しようと考えていました。
僕はチリでのワーキングホリデービザを持っていたので規制が厳しくなってもチリには戻れる状態でした。
なのでパラグアイからブラジルへ入国したあと、チリへ戻る予定でした。
同じく南米を旅している人たちに比べたら危機感なく旅をしていたのかも知れません。
案の定2020年3月から南米の各国でも入国が禁止されるようになってきました。
3月の上旬僕がパラグアイから陸路でブラジルに入国した数日後、パラグアイやブラジル、他の南米諸国が国境封鎖を始めたのです。
パラグアイの日本人宿に泊まっていたときに多くの日本人バックパッカーに会いました。
そう、パラグアイで国境封鎖を食らった僕の友人たちはパラグアイで数ヶ月間隔離生活を送ることになったのです。
しかもパラグアイでは町から町への移動も禁止されていたみたいで、かなり不自由な時間を過ごすことになったらしいのです。
僕はブラジルで隔離生活を強いられましたが、幸いにも移動の規制などはなかったので弓場農場と言う日系人の集落に数ヶ月間一緒に生活させてもらうためサンパウロから西に600キロの距離をバスで移動しました。
弓場農場での経験は全てが斬新でこの集落で育った人たちは芸術を子供の頃から触れながら生活してきているので感性がとても豊かで生活に関する多くの事をこの弓場農場から学ぶことができました。
また弓場農場での体験記に関しては違う記事で詳しく書こうと思います。
チリに戻らないと決める
弓場農場での充実した生活とコロナでの状況が各国で酷くなってきたこともあり、結局半年間弓場農場でお世話になりました。
本当は弓場農場で数ヶ月だけお世話になり、チリに戻って申請中だった住民登録や口座開設などを受け取って仕事を探そうと思っていましたが、チリでのコロナ禍での生活がかなり厳しい状態になっていました。
当時チリでは週に2回だけスーパーへの買い物の為だけ外出許可が出されると言うかなり厳しい規制で、多くの人が仕事を失っている状態でした。
ただでさえ僕にとってチリで仕事を見つけることが難しいのにこの状況で職探しは皆無に等しいと判断し、ブラジルに滞在することに決めました。
ブラジルもマスク着用などの規制がありましたがレストランなどもやっていましたし、スーパーなども自由に行けるので他の国々に比べ規制は緩いみたいでした。(弓場農場にいた半年間のブラジルの状況はよく分かっていません)
ビザ問題
僕はブラジルへ観光ビザで入国しました。
通常3ヶ月間の滞在が可能ですが、コロナ禍ということもあり、ブラジル政府が観光ビザの旅行者に対して2020年の11月までの滞在許可を出してくれました。
なので3ヶ月を超えても僕は合法的にブラジルに滞在する事ができたので、滞在が許されるギリギリまでブラジル国内を旅行することにしました。
実はと言うと滞在許可が更に延長されることもちょっと期待してました。
ブラジル国内旅行を始める
弓場農場を出て先ず行った場所はサンパウロ。
特にサンパウロでやりたい事はなかったので数日してすぐにリオに行きました。
長距離バスも問題なく走っていました。
リオで先ず始めに泊まったのはヴィジガウという地域にあるファベーラ。2泊のみ予約してましたが気に入ったので2週間ほど延泊しました。
コロナ禍で旅行客が少ないのか宿泊料金はかなり安くドミトリーでも貸切状態の日が何日もありました。
観光地のリオでさえほとんど外国人観光客に会うことはなく、会う人はコロナ禍で僕みたいに長期で滞在する事になった外国人の方が多かったです。
危険と言われているリオでも特に危ない目に合うことはありませんでした。
リオで知り合ったコロンビア人の友人は喧嘩で顔を殴られてパンパンに腫れていましたが。
そんな観光客の少ないリオデジャネイロを後にし、広大な滝などの自然が多くあるミナスジェライス州のベロオリゾンテにバスで移動しました。
コロナ禍でもいくつかホステルがあり、リオデジャネイロ同様600円程で見つけることができました。
その中でも家族経営しているホステルを見つけ、なんと1ヶ月約6,000円で個室を提供してくれました。
そこからは日本に帰るまでそこを拠点にしていろんな地域を旅しました。
帰国する
ブラジルに入国してから1年1ヶ月後ついに帰国する事にしました。
旅行客の少ない時期のブラジルはすごく旅がしやすかったし、地元の人たちと触れ合う機会が増えとてもいい時間を過ごさせてもらいました。
コロナでアジア人と言う事で差別を受けるという事はここブラジルでは一度もありませんでした。
出国時止められる
無事日本行きのチェックインが終わり、イミグレでブラジルの出国スタンプをもらおうとした時、オーバーステイがバレました。
しっかりブラジルへ入国したときのスタンプを見られ、1年以上滞在した事がしっかりバレました。
その女性スタッフは僕にペナルティの承諾書にサインするよう紙を渡してきました。
その内容は、次回ブラジルに入国する際に10,000レアル、日本円にして約20万円払えば入国できると言う内容でした。
当時は1レアルが20円。
ここで言い訳とかしても無駄と思ったのとフライトまでの時間がなかったので素直にその用紙にサインしました。
その女性スタッフも終始気楽な感じで、次入国する時に払えば良いだけだから大丈夫よ!
って感じで、よくある事なのか慣れているようでした。
それにしても20万円は辛いです。
フライト中もしばらくはその事が頭から離れませんでした。
月日は流れ再入国
日本でしばらく過ごし、その後ヨーロッパを旅行しそのまま2021年11月にブラジルのサンパウロへ飛び立ちました。
ブラジルへの入国の条件はPCRテストの陰性証明だけなので入国に関してはめちゃくちゃ簡単でした。
しかし僕の場合はオーバーステイのペナルティ、20万円があるのでサンパウロ行きの飛行機の中でもなかなか落ち着く事ができませんでした。
もちろん払う準備は出来ていましたし、あわよくば交渉して安くしてもらおうと思っていました。
ブラジルのイミグレ
飛行機は無事時間通りにサンパウロに到着しました。
こっから一気に心配になって来ましたが、外国人用のボーダーコントロールのレーンには殆ど人が居なかったので一瞬で僕の番が来ました。
今回も若めの女性スタッフ。女性スタッフは細かく確認する人が多いので嫌いです。
とりあえず、向こうに言われる前からパスポートと陰性証明書、ロケーターフォームを見せました。
パスポートとパソコンを見比べる動作本当に辞めてほしいです。ひたすらバレないことを祈ってましたが、どうせオーバーステイの記録はパソコンに記載されているんだろうなと諦めていました。
そしてその女性スタッフが質問してきました。
”ブラジルにはいつまで居る予定?”
まさかの普通の質問でとりあえず適当に1ヶ月と言いアルゼンチンに行くと言いました。
で、次の質問はオーバーステイの事かなと思っていたら、質問はそれ一つでスタンプを手に持っていました。
その瞬間、心の中で
”早くスタンプ押せ!パソコンとか見なくていいから早く押せ!”
って、ひたすら祈ってました。
すると
願いも通じたのか、なんと何事もなく無事スタンプを押してもらうことができたのです。
その後は急いでパスポートを受け取り逃げるようにしてその場をさりました。
ブラジルのイミグレは甘々
結局サインした紙はパソコンに記入されていなかったのかそれとも今回の女性スタッフが見落としただけなのか、答えは定かではありませんが、ペナルティを払うことなくブラジルへ再入国する事ができました。
ペナルティ無しは思っていなかったのでブラジルの甘々な管理システムに感謝です。
ですので、ブラジルでオーバーステイしてしまった方で再入国を考えている人が居ましたら、ペナルティなしで再入国する事ができるかもしれません。
100%大丈夫とは言い切れませんが、サンパウロでこのようなまた管理システムなら多分ペナルティなしで来れると思いますので、僕と同じような悩みを持っていた人にとって参考にしてもらえれば幸いです。
今回はちゃんと3ヶ月間の滞在にしようと思っていますが、またオーバーステイしてしまうかもしれません!
その時は再度ブログに状況を報告します。
皆さんもいい旅を!